タイトル 「ヌートリア」
ヌートリア
吾輩はヌートリアである。名前はまだない。……いや、人間どもが勝手に「害獣」と呼んでいるから、それが名前なのかもしれない。
南米から遥々海を渡ってきた我が一族も、今やこの川のすっかり重鎮である。オレンジ色に輝く立派な前歯、悠然と水中を進む優雅な泳ぎ姿。どっしりとしたこの存在感は、どう見ても川の王者にふさわしい。
今日も今日とて、堤防の草をのんびりと食んでいたときのことだ。
川沿いの遊歩道を、若いカップルが歩いてきた。人間というのは実に騒々しい生き物で、少し離れていても声がよく通る。
「あ、見て見て! カピバラじゃない!?」
女性が目を輝かせてこちらを指さした。
ふん、またか。無知な人間め。カピバラは南米の大湿原に暮らす愛くるしい人気者。だが、吾輩のこのシュッとした(?)フォルムと、自慢の立派なシッポが見えないのか。吾輩はヌートリアだ。
「えー、マジで? めっちゃかわいい〜! 写真撮ろう!」
彼女はスマートフォンを構え、興奮気味に連写しはじめた。
まあいい。違いのわからない人間相手とはいえ、褒められて悪い気はしない。吾輩は少しポーズを整え、カメラに向かって自慢のオレンジ色の前歯をチラリと覗かせてやった。ファンサービスというヤツである。
すると、隣にいた男性が眉をひそめ、スマホで何かを調べ始めた。
「いや待てよ……これ、カピバラじゃなくてヌートリアじゃないか?」
お、ようやく理解したか。そうだ、吾輩はヌートリア。特定外来生物にして、川の影の支配者である。ひれ伏すがいい。
「えっ、ヌートリアってなに?」
女性が首をかしげると、男性は画面を読み上げながら、ドヤ顔でこう言い放った。
「外来種だよ。ほら、ドブネズミを巨大化したみたいなヤツ」
――ドブネズミ。
その一言が、吾輩のプライドを粉々に打ち砕いた。
ドブネズミだと? この洗練された毛並み、優雅な水かき、そして誇り高き南米の血を引く吾輩を、あろうことかドブネズミの巨大化版などと呼ぶとは!
怒りに震えた吾輩は、人間どもに目に物見せてやろうと、カピバラ直伝の「愛くるしい首かしげポーズ」をピタリとやめ、威嚇のために「シャーッ!」と大きく口を開けて一歩を踏み出した。
その瞬間、女性が金切り声をあげた。
「キャーッ! 喋った!!」
「バカ言え、威嚇しただけだろ! 逃げるぞ!」
二人はパニックになり、脱兎のごとく走り去っていった。
静けさを取り戻した川辺で、吾輩はぽつんと取り残された。
……フン、逃げ出したか。我が威厳に恐れをなしたのだろう。
満足して再び草を食もうとしたその時、ふと足元に、彼女が慌てて落としていったスマホがあることに気づいた。画面はまだ点灯している。そこには、先ほど男性が検索していたページが開かれていた。
画面に躍る大きな文字を、吾輩は二度見した。
『ヌートリア:ネズミ目キヌゲネズミ上科ヌートリア科。和名:沼鼠(ヌマネズミ)』
……やっぱりネズミじゃねーか。
吾輩は静かにスマホを川に蹴り込み、深くため息をつきながら水の中へと潜っていった。

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